2017年05月16日

【旅の日】 一人旅をオススメする 5つの理由

5/16は、「旅の日」だとのこと。
松尾芭蕉が、「奥の細道」の出発した日ということで、決められたとのこと。
江戸時代はまだ陰暦なんじゃ…という無粋なツッコミは抜きにして、「一人旅をオススメする 5つの理由」を書きたいと思います。

1:「価値観」をぶっ壊すことができる

「自宅 ⇔ 職場/学校」の往復で済んでしまう生活なんてしていたら、
「価値観」がどんどん凝り固まっていきます。
別に馴染んでしまう人は構いませんが、多くの人は息苦しさを覚えるのではないでしょうか?

だったら、今まで体験したことない場所へ1人でぶっ飛んでしまうのは、いい手です。


ワタシも学生時代に、日本の「こうあるべき」という価値観がすっかり嫌になって、ドイツに逃亡したことがありました。

違う国に行ったことで、日本で感じていた仕事や人生への違和感などが緩くなっていく感じがしました。
その時の解放感がクセになったのか、旅好きになっていきました。

何せ、今までの「ワタシ」の世界にないものを体験するのですから、少なからず興奮することでしょう。
その結果、今までにない、「何か」を感じることで、コチコチに固まった「価値観」が緩くなっていくのを感じることでしょう。

そして、反芻する時間を持つことができますから、「ワタシ」を結果的に見つめ直すことになるでしょう。

隣に共通の価値観を持った人がいるとなると、それに引きずられる可能性もありますから、「価値観」をぶっ壊したい時は、1人で旅先に行くことがオススメです。



2:自分で判断するようになる

一人旅に慣れている人は、基本的に「判断軸」を持っている人が多いように思います。
少なくとも、「判断を他人に依存している癖に何かあった時に責任をかぶせる人」は、旅慣れした人で見かけたことがありません。


日程は?行き先は?手段は?
旅先だと全て自分が決めて行かないと、何も進まないからです。

何もしないで、心地よい所でゆっくりするのだって選択肢の1つではありますが、
心躍る場所まで行こうと思うと、どうしても何かを手配しないといけなくなってきます。

でも、その過程だって楽しいのではないでしょうか?


3:自分の肌感覚を大切にするようになる

2番とも繋がるのですが、誰かがこう言っていたから…という話よりも、自分の体験してきた話を大切にするようになります。

特に痛感するのは、海外の「安全」に関する話。

以前は旅行会社で働いていたのですが、「海外は危ない」という話は、耳にタコができるくらい聞きました。

そんなこと言う人に限って、海外に行ったことがない…というのはよくある話です。

日本ほど安全な所はないかも知れないのですが、海外だって人が生活しているのです。
氣をつけることさえ守れば、意外に何ともないのです。
(もちろん、忠告を無視して危険な所に行ったのであれば知りませんが。)


もちろん、現地に行ってみて、聞いていた話と違う…なんてことはザラにあります。

そうなってくると、普段出回っている情報って何?という話になってきます。

そこで、自分の肌感覚を信じていくことが結構大事になってきます。
「痛い目」に遭うこともない訳ではないのですが、でもそれ以上に楽しいことも多いです。



4:ちょっとは面白い人間になった氣がする

やっぱり、非日常の世界の体験が増えていくわけですから、
旅先での経験をちょっとするだけでも興味を持ってもらえる可能性はあります。
ましてや、その時に体験したのは自分一人なのですから。

あるいは旅先でも、自分の地元の話をしたりすることは、話のタネになります。

…ということは、日本のこと、地元のことをよく分かって話ができるようになると、旅先で人氣者になるかも知れません。

それはあなた次第の所。


5:やっぱり1人であっても旅は楽しい

色々言いましたが、これ以上の理由が、いるのでしょうか?



「ぼっち」(独りぼっち)だと言うと、ともすると、勝手に否定的なイメージをつけて回る人がいるのですが、それはただ単に群れていないと不安な人たちの勝手な戯言です。

どうしても一人旅でどうしても寂しくなったら、旅先で飲む相手を見つけたって構わないのです。

一人で非日常を体験しに行く…そんなことが今の日本だと貴重なのかも知れません。
だからこそ、ワタシは一人旅もオススメします。
posted by KAZU at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

重苦しい「過去」を手放すには? @鞍馬

貴船側から #鞍馬山 散策。
#魔王殿 にしばらくいた後、一氣に #鞍馬 の山門へ。


写真にあるのは、鞍馬山にある「魔王殿」
ここで午前中に40分余り、周りの雰囲氣を感じ取り、静かにしていました。


山林に入っていって、単純に物理的に人から離れるだけでも、自分の心の中が浮き上がってくる。
信仰の対象になっていた場所であれば、なおのこと「心の中が揺さぶられる」感じがする。

GW中に、出羽三山に行ってきて…
http://kazu-wiz.seesaa.net/article/449650039.html


確かに浄化された感じがあったのです。解放感はあったんです。

でも、どうも「心が重い」まま。
いや、長年、奥底に押し込んでいた「嫌だ」と思っていたものが、浮き上がってきた。
けれども、それが何であるかが分からない状態だった。

そんな時に、普段お世話になっている、新大阪のサロンで「日本の神様カード」を引いたら、
出てきたのがまた「天翔ける天狗」(笑)

http://ameblo.jp/hasujapan/entry-12274077335.html


ということで、天狗にゆかりのある、鞍馬に来ていたのです。


凄いのは、感じていた重いものが、やはり浮き上がって、消えていったこと。

それは何かと言うと、「〜すべき」という過去の記憶


このブログでも何度か書いてきたけれども、
「〜すべき」という古い考えなんて、もういらないと思っている。

小さい頃に知らず知らずのうちに植え付けられた「〜すべき」という考えで苦しんでいる事は、本当に多い。

「〜すべき」というのは、そもそも「ワタシ」の言葉ではない。
そして、「イマ・ココ」の「ワタシ」に合わないことの方が多い。



それがちょっとずつでも減っていくと、どんどん生きるのが楽になってくる。

「イマ・ココのワタシが、何を望んでいるのか?」
その感じに耳を傾け、忠実になることが、一番楽しいのだろうと思う。


自分の心の内に聞いていってもいい。
確かに、その邪魔になっている感じが見つかることもある。

ただ、その「望み」に意識が向かないことだってあり得る。

そんな時は、山林に潜るのが一番手っ取り早い。
そうしたら、心の中がほぐれていく。

京都から比較的近く、集合意識から離れた場所なので、オススメです。

2017年05月14日

「ふるさと納税」でモノを配るくらいなら、廃止した方がいいでしょう

返礼品を目当てに「ふるさと納税」をする人が結構いるらしい。

その中で、「ふるさと納税」の返礼品をやめた自治体があるらしい。
埼玉県の所沢市のお話。

ふるさと納税返礼品、やめたら寄付ゼロ「でも良かった」
http://www.asahi.com/articles/ASK5961S8K59UTNB014.html


記事にある所沢市のケースでも、2016年度で、3700万円のふるさと納税があった上で、その4割程度(1500万円程度)が返礼品になっていた模様。

「ふるさと納税」の返礼品を何となしに眺めていて、納税額の4割程度の値段のモノが返礼品として並んでいるという感覚はあった。


でも、返礼品は、その地域の豊かさを生むであろう、「特産品」であることが多い。

それならば、その「特産品」を目当てに現地に来てもらうなり、ネットで販売するなりなどして、売り上げとして上がってくれた方が、結果的にその地域の人も直接豊かになるし、地域の税収が堅調に上がるんじゃないの?と思ったりする。

今でこそ、ウェブを使えばPRなんてコストはほとんどかからない。
そっちに労力を割いた方が賢いんでないの、と思う。

例えば、各地の観光協会や自治体のサイトを見るけれども、これは!と思うのはほんの一握り。
8割くらいのサイトは、ワタシの興味のあるテーマがその街になかったら、決して見ないであろうレベルのモノばかり。
観光資源のある街ですら、その有様だったりする。

外野で色々見てきただけに、何でPRにもっと労力を割かないのだろうか?とつくづく思う。



それ以上に「?」と思うのは、ふるさと納税の額の4割が、「モノ」になって消費されているということ。

その返礼品を受け取った当人は嬉しいかも知れないが、
その分、公共の用途で使われていたはずのお金が、消費されて消えているということ。

もうちょっと具体的に言うと、保育所や学校の運営に必要な費用や、地域の建物の維持費用などで使われていたはずのお金が、その分、消えてなくなっているということ。

それ…将来に繋がるお金なの?と思うのだが、どうだろうか?


地域に使うお金が「返礼品」に変わっていくのは、少なくともワタシは見ていて氣分がいいものではない。

じゃあ、お前も「返礼品」貰えばいいじゃないか、という話になるけれども、
だったらその分も地域の整備に使ってもらった方が、良いんじゃないの?とワタシは思うからだ。

思い入れのある街や被災地の応援をしたいから、ふるさと納税をしたいと思ってしている人たちもいるだろう。
そんな人たちからしたら、高額な謝礼が来たら、「は?」と思わないだろうか?
そんな金あるくらいなら、さっさと街の整備に使えよ、と。


ワタシも昔は税金は正直払いたくないと思っていたから、「損するのが嫌だ」という意識がどうしても働くのも分かる。
だから、返礼品のある「ふるさと納税」にしてしまおうと考える人たちが出てきたのも理解できる。

でも、結果が整備に行くはずのお金が減って、それが「住みにくい街」に繋がるのであれば、ちょっと待って欲しいと言いたくなる。
そして、「損する」って言うけれども、自分の社会のことじゃないの?と思う。
自分の社会が住みにくくなって、心地良いのかい?って。


どうせ同じ税金を払うのであれば、ワタシはこの街に住みたいのだから、払ってもいいと思っていた方が、心持ちがいいと思う。
そして、どうせなら好きだと思える街に住んでいた方がいいと思う。

そう考えたら、ふるさと納税を残すにしても、「返礼品」はなしにした方がいいように思う。
posted by KAZU at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする