2016年11月23日

それ「ワタシ」が望んでいると思い込んでいませんか? (高校・大学時代)

だいぶ前に、ワタシの過去をさらけ出していました。

私は「変な子」 理解者は誰もいなかった 小学生時代
http://kazu-wiz.seesaa.net/article/441225855.html

教えて欲しかった「嫉妬」への対処法 中学生時代
http://kazu-wiz.seesaa.net/article/441235597.html


子どもの頃から「知る」楽しみは確かにありました。
そのおかげか、進学校に行って旧帝大に行く…くらいの学力は身につけることができました。

でも、多くの人は誤解していますが、だったら「幸せ」なんじゃないの?
って。

多くの人が、まだ「良い学校に行く⇒良い会社に就職」なんて価値観を信じ込んでいますから。


いやいや、高校・大学と、ちっとも幸せではなかったです。

いじめられていたのかというと、
「いじめ」なんてもの、約一名を除いて見たことありません。

それでも、幸せでなかったのです。
むしろ、年々辛い感じが増していました。



え?知ることが好きなのに何で?って言うかも知れませんが…

いつの間にか「好きだから学ぶ」のではなく、「評価されたいから学ぶ」にすり替わっていたんですね。

評価されなくなるのが怖くて、求められていることを勉強していたんですね。
だから、気が付いたら、ちっとも楽しくありませんでした。

大学での研究のテーマも、自分が「やりたい」ことではなく、
「やるべき」と感じていたことを選んでしまっていました。


「他人の評価」を行動基準にすると、だんだん「やるべき」にすり替わっていって、ワタシが消えていってしまうんです。

だから、「やるべき」ことと、「やりたい」ことが近くても、決して面白くないです。

だって、旅行も行きたかったし、魔法や魔女のことを研究したかったし、ファンタジーの世界の話をしたかったし…ワタシのやりたいことを心の奥底に押し込んで、生きていた訳ですから。

「良い学校に行く⇒良い会社に就職」なんて、「他人の価値観」なんて信じ込んで、必死にワタシでないものに無理をしてなろうとしていて、自分の神経を極限まで削って生きていく感じがしたんです。


ワタシがやっていて楽しいことを突き詰めるために、
良い学校に行くのが良い選択肢だとその生徒が思うならば、そのために勉強するのは、別にいいんです。

でも、「良い学校に行く⇒良い仕事につく」という明治からの「他人の価値観」を信じ込んでいたって、何の役にも立たない所か、害にしかなりません。

子どもは本来知るはずありませんから、大人こそさっさと手放した方がいいです。



常識や世間体なんて、「他人の価値観」の最たるものです。
その「他人の価値観」を語る人間ほど、それを信じ込んで苦しんでいる人がいても、真っ先に見捨てます。

「他人の価値観」を語る人間は、自分で責任を取りたくないから、「他人の価値観」を語るんです。
まして、他人のことなんて絶対に責任を取りません。

そんなずるい人間に耳を貸して苦しむのなんて、割に合わないです。



「しんどい」と思うことの中には、「他人の価値観」が紛れ込んでいることがよくあります。

自分の「やりたい」と思うことにシフトするなり、
「しんどい」と思うことを感じ切ってみるなりしてみる、なんて対策、今だったらできます。


でも、当時のワタシは、
日本にある「他人の価値観」が嫌になって、ドイツへと飛び出しました。

日本にいても幸せになれないと当時は思っていましたから。
せめて好きな対象だったドイツに行こう…なんて思いました。

今だから分かりますが、「他人の価値観」から自由になるという意味で、別の国に行くのはいいのですが、
「日本にいても幸せにならない」というのも、実は違うんですけどね。

それはまた気が向いた時に…
posted by KAZU at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

教えて欲しかった「嫉妬」への対処法 (中学生時代)

大概な小学生時代も終わり…
私は「変な子」 理解者は誰もいなかった (小学生時代)


中学時代になると、ちょっとはマシになりました。

でも、またいじめられていました。(苦笑)

「知りたい」が高じて確かに勉強はできたのです。
後に旧帝大に行ったくらいですから、勉強は確かにできました。

中学まで来ると、それなりに勉強が必要なのかもしれない…と思いこまされますので、小学校時代よりは扱いはマシでした。

「勉強ができたら」、さぞ人生楽なんだろう…なんて思うかも知れませんが、
人の邪魔をして足を引っ張ろうとする
面倒な人たちが残念ながらいるんです。

そう、「嫉妬」をしてくる人間が少なくなかったんですね。


「嫉妬」に関しては、どんなに気をつけたとしても、はたから見たら「見当違いの理由」で攻撃の的にされます。

「何をしたとしても」、いや何もせずに「そこにいるだけ」で、
勝手に向こうさんが「攻撃された・侮辱された」と感じて、いじめたり・無視したりするのですから。

それこそ鼻が5mm高いくらいの、取るに足らない理由ですら、「嫉妬」の感情からいじめる連中までいますから。

それだけに、「嫉妬」って…対処の仕方を知らないと、本当に面倒なんです。


今であれば、例えばこんな対処の仕方を思いつきます。

1:「嫉妬」する人間を相手にしない

今のワタシは、これが一番いい対処法だと思います。

何せ「嫉妬」の正体は、自分の中にある「劣等感・不足感」なのです。

どんな「ワタシ」であったとしても、それを素直に受け入れられる人であれば、「嫉妬する」なんてことはないのです。
ただ「違い」をそれとして認めるだけなので、付き合っていても本当に楽です。
こういう方を選んで生きていくことができれば、人生が楽園に変わっていきます。

「嫉妬する人」というのは、「自分が欲しいモノ(=知力・体力・美貌・財力etc.)さえあれば、全ては上手くいくのに…」という「不足感」がココロの中に巣食っています。

・「(手に入りそうな)自分が欲しいモノ(=知力・体力・美貌・財力etc.)」が、
・ワタシには手に入らないのに…
・それを持っているアイツは何なんだ!!(怒)

…となってしまうのです。

これ…自分のイライラで勝手に怒っているだけですよね。
「嫉妬」されて、八つ当たりされる方はいい迷惑ですよね。(苦笑)

だから、相手にしないのが一番楽なのです。

でも、これはある程度、「ココロの余裕」がないとできない方法です。
自分が存在しているだけで価値がある…そんな「自己肯定感」があれば、「嫉妬」なんてそれほど気にならないものです。

しかし、当時の私にとっては、それは無理でした。
というのも、小学生時代に「自己肯定感」がズタズタになっていので、一々反応してしまっていたのです。


だから、「自己肯定感を守る」という意味では、こんな方法もありますね。

2:さっさと安全な場所を創って、そこへ逃げ込む

物理的に離れるのが一番てっとり早い方法です。
一日中は無理でも、「ワタシ」が安心して過ごせる場を創ることでいくらか安定してきます。

でも、あの父親のいる私の家で、そんな物を望むことは、当時の私には無理でした。


そうなると取れる手段はこうなる訳です。

3:一思いに嫉妬されないくらいに突き抜けてしまう

例えば…
草野球をしている人が、プロ野球選手に嫉妬するなんてことはありませんよね。
それはレベルが違い過ぎていて、手に入る訳がないと思い込んでいるからです。

だから、手の届かない高みに行ってしまうのも、一般的にはいい方法だと言われています。

…が、
この道は、使い方を誤ると、とんでもないこじらせ方をします。

別に鼻持ちならない人間になるとか…そういう話ではありません。

どうなるかと言うと、「高みに行けば行くほど、楽になるどころか、しんどくなるのです。」
正に私の高校・大学時代がそうでした。

↓↓↓
それ「ワタシ」が望んでいると思い込んでいませんか? (高校・大学時代)

しかし…思うのです。

日本の学校教育の前提が「(結果として)平等であるべき」「みんな一緒であるべき」ですから…
本来それぞれ「違い」があるのに、だいぶ不自然な環境のように思います。

だから、「嫉妬」に対する対処の仕方なんて教えないですし、教えられる教師も殆どいないんですよね。
そもそもの前提自体がおかしいことに気付けませんから。
(気付いた教師ほど、学校現場から離れていくでしょう。)

だからこそ、私はお互いの「違い」を楽しめる、そんな環境を今求めているのだと思います。
posted by KAZU at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

私は「変な子」 理解者は誰もいなかった (小学生時代)


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流行りものに、一切興味のなかった「ワタシ」。
みんなスポーツ少年団で野球をしていたのに、一切興味のなかった「ワタシ」。

私の興味のあるものは、ほとんど全て、嘲笑されていた。
いじめ…そんなの日常茶飯事。

教師ですら、「ワタシ」のことを理解しかねる。
酷い教師になると、あらを見つけては叱責する。


そんな小学生時代でした。
一言で言えば、「浮いて」いました。

あの頃懐かしなあ…なんて思うような学校時代の記憶なんて、私にはありませんでした。

特に田舎の学校なんかに行くと、こんなこと珍しくありません。
異質なものに対しては、妙な敵対心を持ってきます。


今の時代であれば、まだ学校に行かないという選択肢も受け入れられるのかも知れません。

しかし、私の父親が、とんでもなくおっかない人間で、すぐに手を出すのです。(苦笑)

父までの時代であれば、嫌だろうが何だろうが、歯を食いしばって生きる…
なんてものも当たり前だったのかも知れないのですが、
でも、私は違和感を感じながらも、従うことしかできませんでした。

反抗しようものなら、暴力が待っていましたから。

いじめられたつらさとか、逃げたいと思う気持ちを、受け止めて欲しいのに…
私には、居場所がどこにもありませんでした。


いつの間にか、感情を話すことが怖くてできなくなっていました。

私にとって運が良かったのは…「知る」という楽しみがありました。
これだけは、世の中の基準に合うものだったので、少なくとも当時は「逃げ道」として有効でした。

でも…前の記事で書いた通り
ココロが感じる「生きづらさ」の正体

「楽しみ」があるだけで、何とか生きていけるものです。
まして、今の時代、同じ「楽しみ」を持つ人に出会える方法はいくらでもあります。

自殺する…そんなの割に合いません。
全力で「楽しい」と思える所に逃げてください。

当時、小学生だった私に言いたいです。
何とか生き延びてくれてありがとう…って。
タグ:いじめ
posted by KAZU at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする