2017年04月27日

「休む」「楽しむ」ことに、「罪悪感」があるんじゃないの?

「ザ・勤勉」とでも呼んでも構わない、ワタシの過去。

でも、しんどかったよ。
だって、「休む」ことや、「楽しむ」ことに対する罪悪感がありありだったもの。

10年前なんて、心身病んでも、更に身体に鞭打って、無理やり動かしていたものね。
今だったら、絶対にやらない。(苦笑)
お金をたんまりもらっても、絶対にイヤ。


「みんな頑張っている」とか、
「自分が休んだら迷惑がかかる」とか、そういうのいらないんだよね。


ビックリするのは、旅行の仕事で、卒業旅行に行く大学生を相手していて…

「長い休みを取れるのはこれで最後だし…」とか言い出す。

「え、ちょっと待てよ!!」って言いそうになって、口をつぐむ。
それ、見事に洗脳されていない?と私は思ってしまう。


特に、ドイツから戻ってきたときはショックだった。
だって、1か月くらいの休み、取るのが普通だったから。

⇒参考に、ドイツの労働環境については…
プレミアムフライデーって、本当に「プレミアム」なの?
http://ameblo.jp/kantan-doitsugo/entry-12252926144.html


だから、日本に戻ってきて、絶望した。

何のために生きているのか分からない…そんな人ばかりで、
相談できる人も、話を分かってくれる人もいなかった。
こんな話を10年前にしていたとしたら、「我慢しろ」だの、「甘い」だの言われて、
一方的に説教されていた。

ああ、ドイツに行ったことが無駄だったんじゃないのか、とすら思った。
ドイツに行きながら、そのことを7年くらいほとんどしゃべらない時期があった。

このことが一番つらかった。



でも、日本に戻ってきて、10年以上たって分かってきた。

「みんなで頑張る」とか、「自分が休んだら迷惑がかかる」とか、
休むことに「罪悪感」を植え付けられているんだな…と氣付いた。


思い返してみれば、小学生の頃から、「休まず行く」ということを徹底的に叩き込まれていた。

ここからすでに、「休む」ことへの「罪悪感」を植え付ける「洗脳」が始まっていたんだな、って。

工業化の時代だったら、一万歩譲って理解できない訳じゃない。
9時−5時で従順に働いてくれる労働者を創るために必要だったのだろうとは思う。
(それが良いか悪いかは別として)

これで、「日本勤勉教」が出来上がってしまった訳。

でも、工場の生産ラインですら機械化がどんどん進んでいるなかで、今さらそれ重要なの?と思う。
もういらないんじゃないの?って思う。


もっと「人間臭い」ことの方が重要でしょ。

「イマ・ココ」に何でいるのと訊かれたら、
今であれば「楽しむために生きている」と迷いなく言える。

だったら、「楽しむ」ことを生み出すことの方が、いいんじゃないの?とワタシは思う。

このことが、ワタシの中で腑に落ちてからは、一氣に心持ちが楽になった。


そこにあった「罪悪感」というのは、ただのまぼろし。
越えてしまったら、他人のやっかみすら、全然氣にならなくなる。


ただ、その一線を越えるのが怖い、というのもよく分かるよ。

敬虔な「日本勤勉教」の信者が、
「何であんただけ楽しようとしてんの?」とか、
「みんな頑張っているのに、あんただけ何してんの?」とか、洗脳にかかってくるからね。


でも、そんなつまらない人の言うことを、はいはい聞いていて楽しいの?って思う。

そんなつまらない人に嫌われるのを怖がって、自分の人生を台無しにする方がもったいないと思う。
ワタシも日本に戻ってきて長年何やっていたんだろうと思うくらい、悔しかった。


だから、「楽しむ」こと、しんどかったら「休む」ことを大切にして欲しいと思う。
posted by KAZU at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月09日

「仲良くすべき」と言ったところで、具体的にどうしたらいいのですか?

色々ストレスが溜まって寝込んでいた。
そしたら、今まで溜めこんでいた感情が、一氣に出てきた。

ちょっとずつその感情を消化していくために、過去に感じていたことを書いていきたい。

*************************************

ワタシには友達が少なかった。
それが氣に病んでいたことだった。

でも学校では「みんな仲良くすべき」なんてやる。
それが苦痛でしかなかった。

かつて「イジメ」を受けていたワタシ。
他人を肉体的・精神的に苦しめてくる人間と、どうやって共存しろと?

でも、多くの大人は、ただ「みんな仲良くすべき」としか言わない。
「どうしたらいい?」と尋ねた所で誰も答えを持っていない。

そして、大人は、往々にして「イジメ」を受ける側に我慢を強いる。
もうちょっと年を取ると、「大人になれ」なんて言われたりする。
それは間違いなく「我慢しろ」というのとほぼ同義。

子どもの頃は、この違和感を言語化できなかった。

この違和感が、更にワタシをズタズタにしていた。
「あ、誰もワタシのことを理解してくれる大人なんていないんだ」って。

そんな小さい頃を思い出して、今、泣いている。

心が痛くて仕方がない。
この感覚が、最近までずっと尾を引いていたことに氣付く。


仲良くできるのであれば、それに越したことはない。
でも、「みんな仲良くす『べき』」なんていうのは、絵空事。

それは、「いじめ」や「いさかい」なんて「存在してはいけない」という論理になってしまう。

その結果だろうか、学校でも社会でも、誰も「いじめ」や「いさかい」の存在を認めたがらない。
世間様から叩かれるのが怖いから、しぶしぶ認めているだけ。


だから、この国の多くの人間が病んでんだよ。
「ある」ものを「ない(=あってはいけない)」と言って、お互い我慢させているんだから。

そんな古臭い不幸の擦り付け合いやめようや、ホンマに。


基本線は「仲良く」でいいのだけれども、壊滅的に共存できない相手だって、残念ながらいる。


「危ない」と思ったらすぐに逃げたらいいんだよ。
力が戻ってきたら…その時に行きたい所に行けばいいのだから。


でも、別の世界に行ったら、
何でも話せる友人、無条件に一緒にいて楽しいと思える友人が、ちゃんといる。

そのおかげで、救われてきたし、癒されてきたし、
そして何より、ワタシも今こうして生きている。


書き切ったら、また泣けてきた。
posted by KAZU at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

「役に立つ」だけでは、もう通用しないのでは?

昔語りを少々。

ワタシの父、子ども時代に困窮していたからなのか、
「役に立つのか?」「金になるのか?」というのが、判断基準だった。

だから、「役に立たないこと」というのは、唾棄すべきものだと考えている節があった。

しかも、父は我慢した働いているものだから、
どうも「楽しそう」にしているワタシらを、どこか快く思っていない節があった。


だから、何かに熱中して遊んでいると、色々鬱陶しいことを言われたものだった。

しかも、インドアな遊び…例えば、ボードゲームとかが好きだったのもあって、
余計に目をつけられていたのかも知れない。

運動のできなかったワタシにとって、子どもの頃に、外に行く楽しさなんて、ちっともなかった。
はっきり言って、行きたくなかった。


氣が付いたら、ワタシも「役に立つこと」しか追い求めなくなっていた。
そして、感情を出さなくなっていた。


そこにあったはずの「楽しさ」だとか、「面白さ」だとか…
あるいは、理不尽さに対する「怒り」「悲しみ」も…


でも、「役に立つ」だけで生きていたって、面白くも何ともない。

ワタシが、進学校に行って感じた、数少ない嫌な面というのが…
「受験に関係ないことは一切しないノウハウコレクター」が、結構な数いるということ。

そんな人たちが世の中取り仕切っていったら…、そりゃ面白くなるはずがない。

彼らから、「何をしたい」ということを感じなかった。
そして、おそらくワタシもそうなっていた。


でも、最近よく感じる。
「役に立つ」を基準にする時代は、もう終わったと思っている。

そうじゃなくて、体感したことを自分の言葉で語ることができる。

それが、「違い」を生み出す
のだと。

それは、言葉でなくてもいい。
人によっては、絵であったり、映像だったり、身体を使う方法だってある。
手段はどうだっていい話。

でも、自分の体感を表現せずに、人の共感は得られないということ。

素直な感情表現には、本当に力がある。
言葉でも、他の媒体でも、感情が乗ったモノって、動かす力があるから。

ただノウハウだけをコピーしてやったところで、絶対に真似できないから。


それを表現するには、色々なことを経験してくことで、どんどんと磨かれていく。

「自分はどう感じているの?」ここを基準にしだしてから、本当に面白いことが多くなってきている。

だから、「役に立つ」もいいんだけれども…
そんなこと言う前に、自分はどう感じているの?
そこに氣付くことが、もっと大事なんじゃないかと、思っている。
posted by KAZU at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする