2017年05月14日

「ふるさと納税」でモノを配るくらいなら、廃止した方がいいでしょう

返礼品を目当てに「ふるさと納税」をする人が結構いるらしい。

その中で、「ふるさと納税」の返礼品をやめた自治体があるらしい。
埼玉県の所沢市のお話。

ふるさと納税返礼品、やめたら寄付ゼロ「でも良かった」
http://www.asahi.com/articles/ASK5961S8K59UTNB014.html


記事にある所沢市のケースでも、2016年度で、3700万円のふるさと納税があった上で、その4割程度(1500万円程度)が返礼品になっていた模様。

「ふるさと納税」の返礼品を何となしに眺めていて、納税額の4割程度の値段のモノが返礼品として並んでいるという感覚はあった。


でも、返礼品は、その地域の豊かさを生むであろう、「特産品」であることが多い。

それならば、その「特産品」を目当てに現地に来てもらうなり、ネットで販売するなりなどして、売り上げとして上がってくれた方が、結果的にその地域の人も直接豊かになるし、地域の税収が堅調に上がるんじゃないの?と思ったりする。

今でこそ、ウェブを使えばPRなんてコストはほとんどかからない。
そっちに労力を割いた方が賢いんでないの、と思う。

例えば、各地の観光協会や自治体のサイトを見るけれども、これは!と思うのはほんの一握り。
8割くらいのサイトは、ワタシの興味のあるテーマがその街になかったら、決して見ないであろうレベルのモノばかり。
観光資源のある街ですら、その有様だったりする。

外野で色々見てきただけに、何でPRにもっと労力を割かないのだろうか?とつくづく思う。



それ以上に「?」と思うのは、ふるさと納税の額の4割が、「モノ」になって消費されているということ。

その返礼品を受け取った当人は嬉しいかも知れないが、
その分、公共の用途で使われていたはずのお金が、消費されて消えているということ。

もうちょっと具体的に言うと、保育所や学校の運営に必要な費用や、地域の建物の維持費用などで使われていたはずのお金が、その分、消えてなくなっているということ。

それ…将来に繋がるお金なの?と思うのだが、どうだろうか?


地域に使うお金が「返礼品」に変わっていくのは、少なくともワタシは見ていて氣分がいいものではない。

じゃあ、お前も「返礼品」貰えばいいじゃないか、という話になるけれども、
だったらその分も地域の整備に使ってもらった方が、良いんじゃないの?とワタシは思うからだ。

思い入れのある街や被災地の応援をしたいから、ふるさと納税をしたいと思ってしている人たちもいるだろう。
そんな人たちからしたら、高額な謝礼が来たら、「は?」と思わないだろうか?
そんな金あるくらいなら、さっさと街の整備に使えよ、と。


ワタシも昔は税金は正直払いたくないと思っていたから、「損するのが嫌だ」という意識がどうしても働くのも分かる。
だから、返礼品のある「ふるさと納税」にしてしまおうと考える人たちが出てきたのも理解できる。

でも、結果が整備に行くはずのお金が減って、それが「住みにくい街」に繋がるのであれば、ちょっと待って欲しいと言いたくなる。
そして、「損する」って言うけれども、自分の社会のことじゃないの?と思う。
自分の社会が住みにくくなって、心地良いのかい?って。


どうせ同じ税金を払うのであれば、ワタシはこの街に住みたいのだから、払ってもいいと思っていた方が、心持ちがいいと思う。
そして、どうせなら好きだと思える街に住んでいた方がいいと思う。

そう考えたら、ふるさと納税を残すにしても、「返礼品」はなしにした方がいいように思う。
posted by KAZU at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

好きに表現していいんだよ

文章を色々書いていますが、
ワタシが、実は作文が大嫌いだった、と言ったら、多くの人は驚くかもしれない。

その理由は…

・「書けない」という状態に対して、フォローができない。
・そもそも書き方を教えられる教師が、ほとんどいない。

のに、書けないでいると、怒ってくるし、一方的にできる、できないと裁いてくる。

その上…
・「こう書くべき」というのから逸脱したら、一方的に先生が怒る。

上手くなる方法すら、教師が教えられない癖に、
何で一方的に評価をつけられるのか、それが理解できない。


言い返せる子であれば、まだいいのかも知れないが、そうでないと、理不尽で嫌な記憶しか残らない。

「あ、ワタシ、モノを言っちゃいけないんだ…」って。

同じような感じで、図工で理不尽な目に遭えば、
「あ、ワタシ、絵を描いちゃいけないんだ…」となってしまうし、

体育で理不尽な目に遭えば、
「あ、ワタシ、スポーツしちゃダメなんだ…」となってしまう子が、でてきてしまう。


そんな理不尽な感じが、ワタシ大嫌いなんだよね。
そして、心の中に重いものを抱えてしまい、みるみる輝きを失ってしまうんだよね。



ワタシの場合、海外に行くことができて、
「洗脳」から解けるきっかけがあったことは、本当に運が良かったと思っている。

というのは、「表現する」ことが良しとされるから、
少なくとも「書く」自分というのを肯定することができた。


日本ではびこっているこの感じが、「おかしい」と氣づくことができたから。

ドイツから戻ってきたとき、本当に驚いたモノ。日本に戻った瞬間に、一様に顔色が悪いのだから。



自分の感じていることを表に出していっていいんだよ。

別に誰かに見せなくてもいいから、自分の内にあるモノをさらけ出したら、本当に楽になっていく。
それだけなんだよね。

上手い、下手は関係ないし、自分の氣持ちが晴れていく…それだけでいい。


そう思って、文章を書いてきたし…
氣が付いたら、絵は描けないのに、冊子のレイアウトなんかも、仕事でやっていたし…
最近だと、写真まで撮るようになった。

この「解放感」というのを、もっと伝えていきたい…なんて思っていたりする。
posted by KAZU at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

その言葉 ちゃんと主語がありますか?

主語のない言葉が、世の中飛び交っていて、それが変な現象を産むことが多い。

例えば…

「一生会社勤めすべき」とか、
「仕事なら、嫌なことがあっても我慢すべき」とか、
「結婚して家族を養うべき」とか

これ、誰が決めたの?
勝手に決めないでくれる!!


って、言ってしまっていいと思います。

「これ、誰が決めたの?」という問いかけって、結構強力で、
こういった、社会ではびこっている、しょうもない「べき論」を片っ端からバッサリ斬ることができます。


行動を縛ろうとする、卑怯者の言葉って、この「主語」が徹底的にない。

「常識では」「社会では」「みんなは」といった、言い方しかできないし、しない。

だって、
違うことして攻撃されるの怖いんだもの。
でないと、その「べき」の内容に魅力がないのに、守っているのが、馬鹿らしいものね。

安全な所から、その「べき」から外れようとする人間を撃墜して溜飲を下げる。

ワタシが決めていないことって、「ワタシは」という主語が出てこないもの。


「で、あなたはどう思っているの?」と聞いて、
「ワタシは」と主語付きの意見が出てこないようなら、「ふ〜ん」と思って聞き流していればいい。

まず傾聴する価値がないだろう。
だって、集合意識の中にある常識の話をしているだけだから、つまらない。

ただ、それを態度に出したり、反論しまうと、
馬鹿にされたと相手が思い込み、面倒なことになるから、聞き流すのが一番いい。


もっとも、「社会通念」を何でもかんでも否定しろと言っている訳ではない。
良いモノだったら採用すればいいだけ。

「主語のない亡霊の言葉」
そんなものからワタシをさっさと自由にした方がいい。
posted by KAZU at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする