2017年04月25日

好きに表現していいんだよ

文章を色々書いていますが、
ワタシが、実は作文が大嫌いだった、と言ったら、多くの人は驚くかもしれない。

その理由は…

・「書けない」という状態に対して、フォローができない。
・そもそも書き方を教えられる教師が、ほとんどいない。

のに、書けないでいると、怒ってくるし、一方的にできる、できないと裁いてくる。

その上…
・「こう書くべき」というのから逸脱したら、一方的に先生が怒る。

上手くなる方法すら、教師が教えられない癖に、
何で一方的に評価をつけられるのか、それが理解できない。


言い返せる子であれば、まだいいのかも知れないが、そうでないと、理不尽で嫌な記憶しか残らない。

「あ、ワタシ、モノを言っちゃいけないんだ…」って。

同じような感じで、図工で理不尽な目に遭えば、
「あ、ワタシ、絵を描いちゃいけないんだ…」となってしまうし、

体育で理不尽な目に遭えば、
「あ、ワタシ、スポーツしちゃダメなんだ…」となってしまう子が、でてきてしまう。


そんな理不尽な感じが、ワタシ大嫌いなんだよね。
そして、心の中に重いものを抱えてしまい、みるみる輝きを失ってしまうんだよね。



ワタシの場合、海外に行くことができて、
「洗脳」から解けるきっかけがあったことは、本当に運が良かったと思っている。

というのは、「表現する」ことが良しとされるから、
少なくとも「書く」自分というのを肯定することができた。


日本ではびこっているこの感じが、「おかしい」と氣づくことができたから。

ドイツから戻ってきたとき、本当に驚いたモノ。日本に戻った瞬間に、一様に顔色が悪いのだから。



自分の感じていることを表に出していっていいんだよ。

別に誰かに見せなくてもいいから、自分の内にあるモノをさらけ出したら、本当に楽になっていく。
それだけなんだよね。

上手い、下手は関係ないし、自分の氣持ちが晴れていく…それだけでいい。


そう思って、文章を書いてきたし…
氣が付いたら、絵は描けないのに、冊子のレイアウトなんかも、仕事でやっていたし…
最近だと、写真まで撮るようになった。

この「解放感」というのを、もっと伝えていきたい…なんて思っていたりする。
posted by KAZU at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

その言葉 ちゃんと主語がありますか?

主語のない言葉が、世の中飛び交っていて、それが変な現象を産むことが多い。

例えば…

「一生会社勤めすべき」とか、
「仕事なら、嫌なことがあっても我慢すべき」とか、
「結婚して家族を養うべき」とか

これ、誰が決めたの?
勝手に決めないでくれる!!


って、言ってしまっていいと思います。

「これ、誰が決めたの?」という問いかけって、結構強力で、
こういった、社会ではびこっている、しょうもない「べき論」を片っ端からバッサリ斬ることができます。


行動を縛ろうとする、卑怯者の言葉って、この「主語」が徹底的にない。

「常識では」「社会では」「みんなは」といった、言い方しかできないし、しない。

だって、
違うことして攻撃されるの怖いんだもの。
でないと、その「べき」の内容に魅力がないのに、守っているのが、馬鹿らしいものね。

安全な所から、その「べき」から外れようとする人間を撃墜して溜飲を下げる。

ワタシが決めていないことって、「ワタシは」という主語が出てこないもの。


「で、あなたはどう思っているの?」と聞いて、
「ワタシは」と主語付きの意見が出てこないようなら、「ふ〜ん」と思って聞き流していればいい。

まず傾聴する価値がないだろう。
だって、集合意識の中にある常識の話をしているだけだから、つまらない。

ただ、それを態度に出したり、反論しまうと、
馬鹿にされたと相手が思い込み、面倒なことになるから、聞き流すのが一番いい。


もっとも、「社会通念」を何でもかんでも否定しろと言っている訳ではない。
良いモノだったら採用すればいいだけ。

「主語のない亡霊の言葉」
そんなものからワタシをさっさと自由にした方がいい。
posted by KAZU at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月07日

「無様」を越えた向こう

「無様」でもいいと思えると、一氣に楽になる。
昨日も書いたけど、その感覚が腑に落ちた。

「無様」って、他人の評価や価値判断が入っている言葉なんだよね。
「他人の目」を氣にしている。
だから、動けなくなっちゃうんだよね。


だって、今までが、「他人の目」を気にする人生だったから。

学校でも会社でも「成績」に一喜一憂し、
かと言って、変に目立てば、「嫉妬」で返ってくる。
「好きなこと」を言えば、嘲笑された。

「出る杭は打たれる」そんな想念が主流の世界に、馴染もうとしていた。


でも…好きでもない人たちの「物差し」にワタシが従わないといけない訳?

評価や判断の基準って、言うけれども、それは誰が決めたものなの?

「常識」「通念」と言ったものでしょ?
「具体的な誰か」はいないんじゃないの?

もし仮に誰かが「常識」を振りかざして批判してきたとしても、
そんな人のこと、無条件で好きかい?

嫌われるのが怖いんだよね。
だから、「無様」だと言われるのが怖いんだよね。

嫌われるのを怖がって、
好きでもない人の「物差し」に合わせるよう、ワタシを曲げた所で、
その人、「物差し」をひん曲げてでも、「合わない、気に喰わない」と言うからね。


いいじゃん、放っておいて。
「無様」でもいいから、やりたいことやった方がいい。

どんな酷いものでも、慣れた世界を手放すのは正直怖い。
ワタシも今でも怖い。

氣付いた人から、「出る杭は打たれる」なんて古臭い世界脱出始めているからね。

そんな人たちの満ち足りた表情を見ていると…本当に幸せだと感じる。

ワタシは、「ワタシがやりたいことを全力で楽しんでいて、それを楽しめる人たちと過ごしていく」
それが一番いいと思う。
posted by KAZU at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする