2017年01月14日

「役に立つ」だけでは、もう通用しないのでは?

昔語りを少々。

ワタシの父、子ども時代に困窮していたからなのか、
「役に立つのか?」「金になるのか?」というのが、判断基準だった。

だから、「役に立たないこと」というのは、唾棄すべきものだと考えている節があった。

しかも、父は我慢した働いているものだから、
どうも「楽しそう」にしているワタシらを、どこか快く思っていない節があった。


だから、何かに熱中して遊んでいると、色々鬱陶しいことを言われたものだった。

しかも、インドアな遊び…例えば、ボードゲームとかが好きだったのもあって、
余計に目をつけられていたのかも知れない。

運動のできなかったワタシにとって、子どもの頃に、外に行く楽しさなんて、ちっともなかった。
はっきり言って、行きたくなかった。


氣が付いたら、ワタシも「役に立つこと」しか追い求めなくなっていた。
そして、感情を出さなくなっていた。


そこにあったはずの「楽しさ」だとか、「面白さ」だとか…
あるいは、理不尽さに対する「怒り」「悲しみ」も…


でも、「役に立つ」だけで生きていたって、面白くも何ともない。

ワタシが、進学校に行って感じた、数少ない嫌な面というのが…
「受験に関係ないことは一切しないノウハウコレクター」が、結構な数いるということ。

そんな人たちが世の中取り仕切っていったら…、そりゃ面白くなるはずがない。

彼らから、「何をしたい」ということを感じなかった。
そして、おそらくワタシもそうなっていた。


でも、最近よく感じる。
「役に立つ」を基準にする時代は、もう終わったと思っている。

そうじゃなくて、体感したことを自分の言葉で語ることができる。

それが、「違い」を生み出す
のだと。

それは、言葉でなくてもいい。
人によっては、絵であったり、映像だったり、身体を使う方法だってある。
手段はどうだっていい話。

でも、自分の体感を表現せずに、人の共感は得られないということ。

素直な感情表現には、本当に力がある。
言葉でも、他の媒体でも、感情が乗ったモノって、動かす力があるから。

ただノウハウだけをコピーしてやったところで、絶対に真似できないから。


それを表現するには、色々なことを経験してくことで、どんどんと磨かれていく。

「自分はどう感じているの?」ここを基準にしだしてから、本当に面白いことが多くなってきている。

だから、「役に立つ」もいいんだけれども…
そんなこと言う前に、自分はどう感じているの?
そこに氣付くことが、もっと大事なんじゃないかと、思っている。
posted by KAZU at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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