2017年05月16日

重苦しい「過去」を手放すには? @鞍馬

貴船側から #鞍馬山 散策。
#魔王殿 にしばらくいた後、一氣に #鞍馬 の山門へ。


写真にあるのは、鞍馬山にある「魔王殿」
ここで午前中に40分余り、周りの雰囲氣を感じ取り、静かにしていました。


山林に入っていって、単純に物理的に人から離れるだけでも、自分の心の中が浮き上がってくる。
信仰の対象になっていた場所であれば、なおのこと「心の中が揺さぶられる」感じがする。

GW中に、出羽三山に行ってきて…
http://kazu-wiz.seesaa.net/article/449650039.html


確かに浄化された感じがあったのです。解放感はあったんです。

でも、どうも「心が重い」まま。
いや、長年、奥底に押し込んでいた「嫌だ」と思っていたものが、浮き上がってきた。
けれども、それが何であるかが分からない状態だった。

そんな時に、普段お世話になっている、新大阪のサロンで「日本の神様カード」を引いたら、
出てきたのがまた「天翔ける天狗」(笑)

http://ameblo.jp/hasujapan/entry-12274077335.html


ということで、天狗にゆかりのある、鞍馬に来ていたのです。


凄いのは、感じていた重いものが、やはり浮き上がって、消えていったこと。

それは何かと言うと、「〜すべき」という過去の記憶


このブログでも何度か書いてきたけれども、
「〜すべき」という古い考えなんて、もういらないと思っている。

小さい頃に知らず知らずのうちに植え付けられた「〜すべき」という考えで苦しんでいる事は、本当に多い。

「〜すべき」というのは、そもそも「ワタシ」の言葉ではない。
そして、「イマ・ココ」の「ワタシ」に合わないことの方が多い。



それがちょっとずつでも減っていくと、どんどん生きるのが楽になってくる。

「イマ・ココのワタシが、何を望んでいるのか?」
その感じに耳を傾け、忠実になることが、一番楽しいのだろうと思う。


自分の心の内に聞いていってもいい。
確かに、その邪魔になっている感じが見つかることもある。

ただ、その「望み」に意識が向かないことだってあり得る。

そんな時は、山林に潜るのが一番手っ取り早い。
そうしたら、心の中がほぐれていく。

京都から比較的近く、集合意識から離れた場所なので、オススメです。

2017年05月14日

「ふるさと納税」でモノを配るくらいなら、廃止した方がいいでしょう

返礼品を目当てに「ふるさと納税」をする人が結構いるらしい。

その中で、「ふるさと納税」の返礼品をやめた自治体があるらしい。
埼玉県の所沢市のお話。

ふるさと納税返礼品、やめたら寄付ゼロ「でも良かった」
http://www.asahi.com/articles/ASK5961S8K59UTNB014.html


記事にある所沢市のケースでも、2016年度で、3700万円のふるさと納税があった上で、その4割程度(1500万円程度)が返礼品になっていた模様。

「ふるさと納税」の返礼品を何となしに眺めていて、納税額の4割程度の値段のモノが返礼品として並んでいるという感覚はあった。


でも、返礼品は、その地域の豊かさを生むであろう、「特産品」であることが多い。

それならば、その「特産品」を目当てに現地に来てもらうなり、ネットで販売するなりなどして、売り上げとして上がってくれた方が、結果的にその地域の人も直接豊かになるし、地域の税収が堅調に上がるんじゃないの?と思ったりする。

今でこそ、ウェブを使えばPRなんてコストはほとんどかからない。
そっちに労力を割いた方が賢いんでないの、と思う。

例えば、各地の観光協会や自治体のサイトを見るけれども、これは!と思うのはほんの一握り。
8割くらいのサイトは、ワタシの興味のあるテーマがその街になかったら、決して見ないであろうレベルのモノばかり。
観光資源のある街ですら、その有様だったりする。

外野で色々見てきただけに、何でPRにもっと労力を割かないのだろうか?とつくづく思う。



それ以上に「?」と思うのは、ふるさと納税の額の4割が、「モノ」になって消費されているということ。

その返礼品を受け取った当人は嬉しいかも知れないが、
その分、公共の用途で使われていたはずのお金が、消費されて消えているということ。

もうちょっと具体的に言うと、保育所や学校の運営に必要な費用や、地域の建物の維持費用などで使われていたはずのお金が、その分、消えてなくなっているということ。

それ…将来に繋がるお金なの?と思うのだが、どうだろうか?


地域に使うお金が「返礼品」に変わっていくのは、少なくともワタシは見ていて氣分がいいものではない。

じゃあ、お前も「返礼品」貰えばいいじゃないか、という話になるけれども、
だったらその分も地域の整備に使ってもらった方が、良いんじゃないの?とワタシは思うからだ。

思い入れのある街や被災地の応援をしたいから、ふるさと納税をしたいと思ってしている人たちもいるだろう。
そんな人たちからしたら、高額な謝礼が来たら、「は?」と思わないだろうか?
そんな金あるくらいなら、さっさと街の整備に使えよ、と。


ワタシも昔は税金は正直払いたくないと思っていたから、「損するのが嫌だ」という意識がどうしても働くのも分かる。
だから、返礼品のある「ふるさと納税」にしてしまおうと考える人たちが出てきたのも理解できる。

でも、結果が整備に行くはずのお金が減って、それが「住みにくい街」に繋がるのであれば、ちょっと待って欲しいと言いたくなる。
そして、「損する」って言うけれども、自分の社会のことじゃないの?と思う。
自分の社会が住みにくくなって、心地良いのかい?って。


どうせ同じ税金を払うのであれば、ワタシはこの街に住みたいのだから、払ってもいいと思っていた方が、心持ちがいいと思う。
そして、どうせなら好きだと思える街に住んでいた方がいいと思う。

そう考えたら、ふるさと納税を残すにしても、「返礼品」はなしにした方がいいように思う。
posted by KAZU at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | これからの社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月10日

「男」をやめたい

生物的には「オス」なのだが、「男」として扱われるとつらい。

「男」をやめたい

色々な誤解を生むおそれがあるから、ちゃんと言っておく。

・ 肉体を「女」にして、完全に「女性」として生きたい訳ではない。
  (「女性」の振る舞いを四六時中求められるのもつらいのは分かっている)
・ ワタシは同性愛者ではない。 恋愛対象は女性だ。

そして、一番大事なのは…

・ 社会的な「男」に付与されたイメージが重過ぎる。それが、ワタシにはとことん合わないし、しんどくて生きづらい。

ということ。


小さい頃から、こんな「大人の男」を見てきた。

・ 家族を支えるために嫌々仕事に行って、しんどそうにしている父
・ 生まれ育った地域の男を見ていても、嬉々として仕事している奴を見たことない
・ 電車に乗っても、一様に男の顔が死んでいる
・ 嫌なことがあったとしても、我慢を強いられる
・ 定年まで嫌であったとしても仕事をしないといけない。

子どものワタシには、こうなりたいなんて1ミリも思えなかったし、今でもそう。

じゃあ、どう生きりゃいいんだよ…なんて、ずっとイライラしていた。


まして、ワタシが中学生だった頃に、男女の関係については「最悪」の洗脳を受けていたようだ。

折りしもバブルの頃だった。
「メディア」で流れてくる、「アッシー」だとか、「メッシー」だとか「ミツグ」だとか…
「男」は「女」にここまでして当然みたいな感じ。

「世の女って、ここまでせんと、つきあえんの…」と唖然としていたもの。
心の底で思っていたんだろうね、「あ、これは相手するの無理だ」って。

実際には、そんな女性ばかりではないというのは、歳を取って頭では理解できるようになった。

でも、実際に付き合った経験のない当時中学生だったワタシは、
その狂った情報を、知らず知らずのうちに真に受けていたようだった。

イタタタタ…だよ。
実際は全然違うのにね。


何かしてもらって当然だと思っている人からだったら、「甲斐性なし」と言われるだろうね。
こんな話をしたら、一般的には「魅力的」には映らない話だと思う。


それでも、勝手に創造された「男性性」を要求されても苦痛以外の何物でもない。
まして、勝手にイラッとされた所で知ったこっちゃない。

「察して」ができない人間だから、言ってくれんと分からん…としか言いようがない。


「男/女だからどうあるべき」なんて話、もういらないんじゃないかな。

「男性性」だとか、「女性性」だとか、共通の「概念」を消費するために生きている訳じゃないんだから。


そんな勝手な「性別の概念」に踊らされて、何が楽しいの?と思う訳。
その「性別の概念」に苦しんでいたワタシも、同時にイタタタタと思う訳。

それでも「男性性/女性性」に踊らされたい人はどうぞ。
でも、ワタシはその「性別の概念」のダンスをしようと、手を差し出すことはしませんから。


「男」だから、「女」だからという「概念」振り回すの、お互いやめにしませんか?
じゃなくて、「ワタシはこうしたい」「ワタシはこうして欲しい」と言えばいいだけの話なのにね。


説教・批判・嘲笑・からかいなら、今まで散々受けてきたから間に合っている。

そして、肉体的な「性差」を否定するわけじゃない。
そこまで否定したら、「子どもが欲しい」という生物的なワタシたちをも否定することになっちゃうから、
おかしな話になってしまう。

一緒にいて楽しいと思える相手とだけ時間を過ごせればいい、ということだけ。
posted by KAZU at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする