2017年04月30日

自分と向き合わなくてもいい

ここ2日くらい、心身とも不調だった。
不思議なことに、のんびりしているのに、「疲れた」感じがずっとあった。


ちょっと前までだったら、
心の中の掘り下げをすぐにするところだったのだが、一切、そんなの手放してみた。


最近だと、好きなことをやっていたら、「重い感情」というのが勝手に浮き上がってきて、
氣がついたら消えていることが、よくあるからだ。

もし、その感情が消えずとも、ちゃんと楽しんだことを感じて、心が満たされていけば、
心はそこそこ軽くなっていることを実感するようになったからだ。


実際、ここ3日間、ただ直感の声に従って、
近所を散歩したり、外で食事したり、ボードゲームしたり、眠たくなったら眠っていただけという。

その間、一切「見るべき」という声を無視した。


必要だと思ったら、心の中を感じて観察してみるのも良いとは思う。
ワタシも、やりたいと思って、かつ必要だと思ったらやるだろう。

けれども、「やらなきゃいけない」となっちゃうと、
どんなことであったとしても、ストレスになってしまう。

ワタシもそうだったのだけど、「完璧主義」のきらいのある人にとっては、
そこで無理してやってしまいがち。

…となると、余計にドツボにはまっていた、ワタシの過去。(苦笑)

ひょっとしたら、「べき」にはまりかけていたサインだったのでは、と感じた、今日の午後だった。
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2017年04月28日

「好きな場所」で過ごせることで手に入れた「安心感」

ウユニの水鏡の話が何日か前に出ていたので、 「 #フシミの水鏡 」を撮ってみた昨日。
ただし、水鏡に自分は映らない。

#京都伏見



京都ではなく、伏見の街が好きなんだな…と実感した。

今の行政区の割り方だと、「京都市内」となるけれども、
「伏見」という別の街だとワタシは、思っている。

そもそもが、京都−奈良の南北の街道と、大阪へ抜けていく淀川の交点にある、
京都の「港町」として発展した街。

だから、別の街であるのは、その通りだったりする。


伏見からだと、大阪でも京都でも、色々な場所に出やすいことは大きい。

今まで京都市内に住んでいて、一番困ったのが交通関係。
目的地に行くまでに人混みや渋滞を通らないといけなかったため、
往復だけで疲れてしまって、氣分転換が全然できなかった。それが、一番の悩みだった。

それも伏見に住むようになって、見事に解消した。


そして、歴史も京都のそれにはかなわないが、400年くらいはある。
雰囲氣のある建物が残っていて、京都の中心部と比べたら、かなり静かな所。

いくつも酒蔵があるので、氣が向いた時にお酒を楽しめるのも、かなりいい。

歴史好きなワタシが、ちょっと街歩きするには、最高の場所である。



子ども時代から、「居場所」がない感じがあった。
だから、「安住の地」を求めている感じが、人生を通してずっとあった。

大学時代から、何度か引越しているものの、
今回は、予算から、場所から、全てを自分で決められた。

その結果が、最高の場所だった。
これは、飛び上がるような感じではなく、静かな喜び。


そのおかげで、身辺で何があったとしても、安心感がある。
この間、身辺で色々あったけれども、何とかなっている感じがする。

これは本当にありがたいこと。


今後、ワタシがどんな感じになっていくのかは分からない。
でも、しばらくは、この街にいることになると思う。
posted by KAZU at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

「休む」「楽しむ」ことに、「罪悪感」があるんじゃないの?

「ザ・勤勉」とでも呼んでも構わない、ワタシの過去。

でも、しんどかったよ。
だって、「休む」ことや、「楽しむ」ことに対する罪悪感がありありだったもの。

10年前なんて、心身病んでも、更に身体に鞭打って、無理やり動かしていたものね。
今だったら、絶対にやらない。(苦笑)
お金をたんまりもらっても、絶対にイヤ。


「みんな頑張っている」とか、
「自分が休んだら迷惑がかかる」とか、そういうのいらないんだよね。


ビックリするのは、旅行の仕事で、卒業旅行に行く大学生を相手していて…

「長い休みを取れるのはこれで最後だし…」とか言い出す。

「え、ちょっと待てよ!!」って言いそうになって、口をつぐむ。
それ、見事に洗脳されていない?と私は思ってしまう。


特に、ドイツから戻ってきたときはショックだった。
だって、1か月くらいの休み、取るのが普通だったから。

⇒参考に、ドイツの労働環境については…
プレミアムフライデーって、本当に「プレミアム」なの?
http://ameblo.jp/kantan-doitsugo/entry-12252926144.html


だから、日本に戻ってきて、絶望した。

何のために生きているのか分からない…そんな人ばかりで、
相談できる人も、話を分かってくれる人もいなかった。
こんな話を10年前にしていたとしたら、「我慢しろ」だの、「甘い」だの言われて、
一方的に説教されていた。

ああ、ドイツに行ったことが無駄だったんじゃないのか、とすら思った。
ドイツに行きながら、そのことを7年くらいほとんどしゃべらない時期があった。

このことが一番つらかった。



でも、日本に戻ってきて、10年以上たって分かってきた。

「みんなで頑張る」とか、「自分が休んだら迷惑がかかる」とか、
休むことに「罪悪感」を植え付けられているんだな…と氣付いた。


思い返してみれば、小学生の頃から、「休まず行く」ということを徹底的に叩き込まれていた。

ここからすでに、「休む」ことへの「罪悪感」を植え付ける「洗脳」が始まっていたんだな、って。

工業化の時代だったら、一万歩譲って理解できない訳じゃない。
9時−5時で従順に働いてくれる労働者を創るために必要だったのだろうとは思う。
(それが良いか悪いかは別として)

これで、「日本勤勉教」が出来上がってしまった訳。

でも、工場の生産ラインですら機械化がどんどん進んでいるなかで、今さらそれ重要なの?と思う。
もういらないんじゃないの?って思う。


もっと「人間臭い」ことの方が重要でしょ。

「イマ・ココ」に何でいるのと訊かれたら、
今であれば「楽しむために生きている」と迷いなく言える。

だったら、「楽しむ」ことを生み出すことの方が、いいんじゃないの?とワタシは思う。

このことが、ワタシの中で腑に落ちてからは、一氣に心持ちが楽になった。


そこにあった「罪悪感」というのは、ただのまぼろし。
越えてしまったら、他人のやっかみすら、全然氣にならなくなる。


ただ、その一線を越えるのが怖い、というのもよく分かるよ。

敬虔な「日本勤勉教」の信者が、
「何であんただけ楽しようとしてんの?」とか、
「みんな頑張っているのに、あんただけ何してんの?」とか、洗脳にかかってくるからね。


でも、そんなつまらない人の言うことを、はいはい聞いていて楽しいの?って思う。

そんなつまらない人に嫌われるのを怖がって、自分の人生を台無しにする方がもったいないと思う。
ワタシも日本に戻ってきて長年何やっていたんだろうと思うくらい、悔しかった。


だから、「楽しむ」こと、しんどかったら「休む」ことを大切にして欲しいと思う。
posted by KAZU at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 過去のKazu | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする